日常の勤務中に与える離婚のダメージ。

年末年始明けの仕事が始まったのだけれど、こうして連休明けの自分の置かれている状況を改めて気付かされる。ああ、誰も頼る人がいないんだなあ、ああ、誰も悩みを打ち明けられる人がいないんだなあ、ああ、今日も定時後にすぐ帰らないと夕食を待っている子どもたちがいるんだなあ、って。

今日は半分仕事にならなかった。
もう正式に離婚が成立して1年過ぎる。

もう1年も経っているから自分自身が受けるダメージなんて大したことはない、気持ちも切り替えて未来を見据えているから離婚のダメージなんて気にしない、、、というわけにはいかない。

悔しいけれど、自分にも残念だけど、何だろう、今の自分の状況を憐れむ気持ちと、なんでこんなになっちったんだろう、っていう後悔というか自分自身にがっかりする気持ちと、結婚式で永遠の愛を誓ったはずの元妻に対する憎悪の気持ちとが入り乱れて、正直落ち着いていられなかった。

 

今日の昼間は、周りで同僚や上司がバリバリ仕事をしている中で、私は眼の焦点が合わずああどうしよう、俺次何しよう、ってぼーっと天井を眺める時間が多かったと思う。

そして生産性のない、元妻に対する恨みと、今の自分の置かれた状況への嘆きと、いろんな気持ちが入り乱れて、あまり思考が回らなくなってしまう。

こういう状況の私に、さらに傷口に塩を塗り込むように、小学校PTA役員をやっていたよしみで、小学校が発信するすべての案内が会社のメルアドにも届いてくる。今日は2年生の担任の先生に、サプライズでメッセージカードを送りましょう!という案内だった。学年PTAの役員の人が、学年の保護者あてにメッセージを送ったものだったが、それがまた暖かい内容で、読んでいて少し心が和んだ。2年生の子どもたちのキラキラした目が思い浮かぶ。そして担任の先生は、子どもたちからのメッセージを受け取って、それはそれは今までの苦労が吹き飛ぶような感動を覚えるに違いない。子どもたちと先生。そしてそれを応援する保護者。理想的じゃないか。

だけれど自分の環境は違う。自宅に帰っても料理するのも洗濯するのも掃除するのも子どもの話を聞くのも勉強のわからないところを教えてあげるのも自分だけ。代わりはいない。体は一つしかないから、どちらかずつしか対応できない。それでも、できることはしている。子どもたちは言葉には表さないけれどそれでも我慢して、これが当たり前だと思ってやってくれている。そして自分は夜10時過ぎに洗濯ものの片づけを始める。

この一方で元妻はどんな気持ちでいるのか知らないけれど、どうでもいいテレビを見てくつろいでいるのだろう。どちらにせよ、元妻は子どもを捨てて自分の時間を選んだ。自分の時間を選ばざるを得ないくらい、自分自身が追い込まれてきていたんだ。それは育った環境のせいかもしれない。けれど、貴女がした判断は、私には理解できない。そして、許すことはしばらくできることはないと思う。この1年は自分の時間も労力も、すべて家族のためにささげてきている。あなたとは違って、自由時間なんてないんだ。毎日1時間。自分の時間が取れればいいほうだ。あなたとはまったく状況がちがう。

そう思うと、今の自分がいたたまれなくなってくる。朝ごはんで山積みになった皿洗いをしながら思う。俺の人生っていったい何なんだ。子どもたちにとって、してあげられることをしてあげられているのかな。親としてどうなんだろう。生きるって何だろう。どういうことなのかな。俺は一体生きていて何になるんだ???って。

 

だけれど俺は心中なんて考えもしない。今の生活の延長上に希望があると思っているから。もう48歳になるけれど、今の生活の先に、もっと自分を好きになれる自分がいると思うから。

だからこうして情報発信を始めている。私はここにいるんだよ、こうやって苦労しながら生きている人間もいるんだよ、って。表情は見えないけれど、きっと同じような境遇の人がいて、その人のために自分の生きざまが役立つと信じているから。

 

こうやって生きていけることに感謝しています。

同じような境遇の人がいると思うけれど、お互いコツコツ積み上げてがんばりましょう。というか、もう頑張っているんです。このままいっしょによい人生を歩んできましょう。

 

今日はここまでです。ありがとうございました。