愛しているもの、愛することができなかったもの

今日は忙しかった。

午後は仕事を早く切り上げて息子の中学校の授業参観と懇談会へ参加。中学校へ行くと、〇〇君(息子の名前)のお父さんだ、と言われる。部活や授業参観でしょっちゅう顔を出すので覚えられたのかな。ちょっとうれしいひと時でした。とはいえ、もう今年度も最後。来年はクラス替えがあるとのことで、今の担任の先生とも最後の懇談会でした。もちろん(?)、父親は私だけで私以外は母親です。学級懇談会では、最後に保護者ひとりひとりから子供の成長について話を求められました。私からは、中学生になった子どもが自分の意志をもち、時間管理も始めたことを頼もしく思うこと、もう親がいろいろと期待する路線を作ってそこに乗っけようとするのではなく、本人に任せるようにしていること、をしゃべりました。他に出席していたお母さんたちも、愛情あふれる報告をしていて、さすがだなあと感心しました。

夕方、帰宅してすぐ夕食づくり。今日はカレーを作りました。中学生の息子は面白いように食べます。2人前は普通で、調子いい時は3人前。見ていてこちらがおなかいっぱいというか、気持ち悪くなるくらいの食欲です。

息子たちがおかわりを食べている間、私はささっと夕食を食べ終え、半年ぶりとなるバンド練習にお出かけ。午後7時から10時まで、久しぶりのバンド練習でした。今日は新曲Mrs.Greenappleの「僕のこと」を中心に練習。もう40台も中盤以降になると、初回の音合わせで大体できてしまいますね。だいたい70点くらいかと思いますが、譜面に書かれたように叩けない箇所もあるので、まだまだ練習が必要です。この曲は、バスドラムハイハットのオープンを同時にアクセント的に鳴らすのが特徴で、さすが最後のサビのパターンはいろいろと工夫が凝らされていて、ちゃんとボーカルとドラムのパターンが寄り添って盛り上げるように作られています。あれっと思うパターンに意味を感じられるので、演奏をしていて勉強になります。

練習終了時にスタジオの方から4月にライブハウスでライブお誘いがありました。メンバーと相談したところ、4月のライブ、おそらく出場することになりそうです。とはいえ練習時間も取れないので、慣れている曲にしようとのことで、演奏予定はさすらい(奥田民生)、ドライフラワー(優里)、Lemon(米津玄師)、新宝島サカナクション)、天体観測(BUMP OF CHICKEN)あたりに決まりそうです。てか、演奏しながら、聞きながら、飲み食いするのがもう楽しみです(音楽はおつまみ、ですねw)。子どもたちには悪いけれど、羽根を伸ばさせてもらおうと思います。

 

そして練習が終わって帰宅したのが午後11時前。台所には洗っていない食べ終わりの食器と鍋が散乱しています。この山を片付け、部屋干ししていた生乾きの洗濯物のうち、明日使いそうな衣類を乾燥機で乾かしてからタンスに畳んで格納。それから風呂に入って、今こうしてブログを書いているのが午前1時前です。

明日は息子の部活で試合があり、午前7時30には自宅を出ないといけません。

今日洗濯すべき衣類が山積みされていますが、さすがに洗濯・物干しすると午前1時過ぎてしまうので明日にしました。

 

と、ここまで読み返してみると、われながらよくやっていると思いますw

 

さてここからが本題です(前置きが長かったな)

これだけの家事が山のように積まれていると、普通なら嫌になったり放り投げたくなるのだろうけれど、今の自分はそうはなりません。もちろん辛いなーと思う瞬間はあるけれど、長いスパンで家事をこなしている自分を自由だと感じています。何だろう、自分が自分の人生を生きている感、自分が関与できている感を毎日感じられているので、つらいとも思わないのだろうと思う。

 

ふと思うと、この感覚、結婚していたときは感じることがなかった。

夫婦生活が、自分の自由につながる感覚。元妻の存在が、自分の人生の自由につながる感覚。夫婦で生活して毎日を重ねることが自分の自由と自分らしさにつながる感覚。

そうした感覚は、婚姻生活していたころには全く感じることができなかった。というか、そういう感覚があること自体、自分の中に感じられていなかった。

なぜだろう。きっと元妻とは最初から距離があった。それはきっと詰めることのできない、何か大きな壁のような距離があったのだろうと思う。これは、付き合い始めた頃、元妻が元カレのことを自慢げに私に話してきたころから始まっているのだろう。

 

とはいえ、私はそのような元妻を、表面上は好きだと思い交際し、結婚した相手のことを想い、無難に生活していたつもりだった。なのだけれど、私自身の中に元妻の存在を受け入れることができなかった。心の底から性格が合わない相手ということは潜在意識としては気づいていて、どこか冷めた目で距離をおいていたのだろうと思う。

こういうのって双方で思うことが多いようだから、向こうもそう感じていたのだろうと思う。

 

つまり、婚姻生活はしていたものの、私は元妻を愛することができていなかった。

というか、元妻を愛することができなかった。自分の一部として取り入れることができなかったんだ。

今となってはすごくよくわかる。自分の一部として取り込めるから、山積みの家事だって何の苦も無くこなしていくことができる。けれど受け入れられないものは、やっぱり違和感も持ちながら取り繕っても、ダメなものはダメなんだ。

 

これが表面化したのが、今の離婚という形なんだろうと思う。

 

もう元妻とは決して交わることはないし、感謝するところもあるけれど、もう物理的に会いたくないし生き別れしたいくらいの存在です。本当ならメッセージすら交わしたくないくらい嫌な存在なのだけれど、表面上だけでも取り繕って、10年以上婚姻生活を続けられたことは本当に奇跡なのだろうと思う。

 

とはいえ、婚姻生活のすべてを否定することはしない。もちろんいい思い出もあったと思う。

だって、私の近くには、私の一部となっている子どもたちが寝ている。その半分は、元妻がいたから今の現実があるのだから。そう思うと、なんだかすごく複雑な気持ちになる。

 

 

私にとって大事なものがなにか。もうはっきりと見えている。
忙しい今日の活動で、愛せるもの、愛することができなかったものが鮮明に識別できるようになってきたと思っている。

 

ああ、もう1時半だ。。。明日の朝飯は6時半くらいかな。。

おやすみなさい。